第三十五話 峠を越えた釣人

この山々の全てを知り尽くす人物は 谷間に
寄り添う集落で 親の代からの山人だった
齢既に75に成らんとするその語り口には
時として 驚かんばかりの内容が含まれており
思わず 崩れ去る寸前の山道を振り返ってしまう
世の移ろいは その佇まいを徐々に変えて行き
其処に村人の生業が有った事さえ 深い緑に
包み込んでは 消し去ってしまう

国道から折れ 130軒余りの家々が肩を寄せる
谷沿いの一本道を駆け抜けて行くと 流れを分け
沿う様に路も後を追い 直ぐ白い鉄製のゲートが
見えて来る 重い扉を開け車を乗り入れるのだが
密集する集落内を縫って来るだけに 住民からの
視線は否応無く意識させられるもので 此処の
住人以外で奥へと入るには 幾等かの心構えを
要するのだろう? どちらかと言えば閉鎖された
雰囲気で排他的な土地柄ではある
水量は余り多くないが 適度な落差の絶妙な造形美の渓で 思わず見入ってしまう天然岩魚一色の世界・・・。
本谷沿いに地道を数キロ登ると同水量で出会う谷 南向け直角に伸び開ける方が 奥行きからも本流なのだろう
脆く崩れ落ちる路は最奥に座る堰堤まで続き 其れは周囲に溶け込み違和感薄い姿で現れその奥の山容を隠す
人の手が加えられない森は 冬山登山パーティが荒天に襲われての撤退で 明瞭であろう県境にある尾根道の
ルートから外れこの谷へと迷い込むらしい やがて出会う事に成る一際厳しい悪場に 進退極まり救助を請う事態が
侭有るとの話だった 想像するに尾根道からの眺望は なだらかに開け穏かそうに装っては 組し易しとの感触さえ
抱かせるのだろうか? 追い詰められた人間に時として自然は甘い誘いを持ち掛けて来る 徐々に体力気力を失い
精神的に追い込まれた登山者達は 魅せられる様にフラフラと迷い込んでしまうのかも? 
この山塊も史的に見ても重要な場所で 戦国時代の古くから人の手が係って来たらしく 杉檜の植樹が奥深くまで
成され時には樹齢数百年を経ただろう巨木に出会い 驚嘆する事も度々と成って居る この山系主峰から見ると 
北側に伸びる位置で日照不足と成る為か 全体に風通しの悪く暗い感じで大気さえも澱み重苦しさを感じたりする。

ザッザッザッ と規則正しく流れ落ちる流水は 黒ずんだ底石の素顔によって醸し出される雰囲気に 更に暗いものと
導かれて行くのだろう? 源流帯独特の規模の小さな 落ち込み 淵 滝の連続は 遡行するには適度な刺激と
好奇心を呼び起こし飽きさせる事は無い   サッ!開きから影が走った 釣師に出合った事など余り無いのだろぅ
此方の姿を見止めても 驚いた様子さえ見せずゆらゆら水面近くで漂い ハッと気付いた動作で反転 発泡の中に
消えて行く岩魚   ザッザッザッ と流水の音だけが残る。
分岐した場所から今度は左の谷向け進路をとる
暫らく行くとどんどん高度を稼ぐ 流石に此処まで
来ると 流れも弱々しく ポツポツと背丈程の古い
堰堤が残り 其の下にも岩魚は居た! この悪路
奥で唯一車を切り返す事が出来る場所 二本の
檜巨木が 天高く突き上げる路肩 其処に車を
入れると まだまだ道が続くであろう名残を残し
鬱蒼とした緑の藪に吸い込まれてしまう。
谷はその手前で右へと進路を変え 源求め駈け
登って行った

見落とし易いが 左の谷の口元辺りに 丸太を
数本並べただけの 土砂に埋まった朽ち掛けの
橋が残り それを渡り不明瞭な踏み後を先に
先にと進めば どれ程もなく右折した流れに再会
此れがこの谷の本筋と思われる その沢の名を
”柿の木谷”と云う この下で対岸に落ちて来る
”梨の木谷”と呼ばれるのも有った? 今では
その由来確認は出来る術も無いのだが 名付け
られた理由に 目印と成る木が有ったか? 或は
其れ用にと山民により植えられた事が思い付くが
今では知る人もない
山道と云うより 踏み跡との表現が似つかわしい峠に向うルートは いったいどれ程の人が足を踏み入れるのだろう?
現代ではおそらく皆無と成ってしまったのではあるまいか その昔この心許無い細道を辿っては 県境の峠を越えて
釣人は裏側の山道を降り この水系では手に入らないアマゴを求め山旅をしたらしい いったいどれ程の時間を
要したのだろうか? 今なら大きく迂回しても車を用いれば30分も有れば楽に付ける時代 この道のの無意味化と
峠を隔てた 民同士の交流生業のひとつを消し去って行った。

ドサッ! 身を投げ出し目を閉じてみると ザワザワの流音に混じり 華やかな明るい話し声が聞こえて来るようだ
期待に胸膨らませ 強い足取りで向う釣師達の会話なのだろうか?      そんな筈はあるまい・・・。
現代の山釣り事情は手軽に門戸は広がった その容易さに存在自体評価も軽く成って来たのだろうか 労苦と
共に有った時代 小さな渓魚に対しての感動尊厳は無縁のものと成りつつある 其れが幸せかどうかは語れない
私も居無くなってしまった頃の 後の世の人が決める事に成ろう   バシャッ! 何かに驚き 岩魚が踊った!

                                                            oozeki